――何て残酷な物語なんだ。
というのが、『デジモンアドベンチャーLAST EVOLUTION』を観始めたときの最初の感想だ。
冒頭10分、これでもかというほどカッコ良くてわかりやすい映像と、これでもかというほど私たちの知るデジモンを流してくれたラスエボ。
ファンには言わずと知れた「ボレロ」と電波障害で始まった映画は、十八番の「Brave heart」で進化とバトルを魅せ、お馴染みの「Butter-fly」で幕を上げた。
だというのに、オープニング明けに見えた景色は、いつかのあの日私たちがうんざりしたことのある「燻った日々」を送る太一だった。
「選ばれし子どもたち」の物語を、あの日小学生だった私たちは、憧憬と希望を胸に眺めていたはずだ。
同世代の彼らが、迷い、苦しみながら、決意を固めて戦う姿を、一緒に戦っているようなつもりで見ていたのだ。
あるわけないとわかりつつ、自分が「選ばれし子どもたち」になる日が来たらなあ、なんて。夏空からデジヴァイスが降ってきて、自分だけの特別なパートナーがいる世界を、ほんの少しだけ夢見ていた。
だけど、大人になる過程でその憧れは、きちんと落ち着いた現実になっていった。
あれはアニメの中の物語で、私たちは「選ばれし子どもたち」なんかじゃなくて、テレビの前で体育座りをしてあの冒険を眺めていた傍観者だった。私たちには、世界のどこかで自分と出会うことを待ち続けてくれる、自分のすべてを受け入れてくれる特別なパートナーなんて、いやしないのだ。そういうことに気づいていった。
代わりに、物語の中の「選ばれし子どもたち」は、本当に特別な勇者様で、その輝かしい冒険の傍らには、運命的で絶対的なパートナーが確かに居た。
私たちと彼らは別の存在なのだ。
ある種の特別視をして、線引きをして、私たちは私たちの現実――没個性の社会に精神をすり減らしながら、年を重ねてきた。
学生時代の特別な友人たちとはケンカをしたわけでもないのに疎遠になって、遅くまで好きでもないバイトをして、真っ暗な独り暮らしの部屋にくたくたになって帰ってくるような日々を積み重ねて。
それなのに、ラスエボの中の太一は、恐るべきことに、いつかの私たちと同じ日々の中にいた。
あの特別な「選ばれし子どもたち」が? いつだって世界にたったひとりの理解者が傍にいて、志を同じくして一緒に戦う仲間もいるのに? 卒論のテーマを決めあぐねて、バイトで疲れた体を引きずって帰ってきた深夜の静かな部屋で、小さい頃持ち歩いていたものを眺めて感傷に浸っている?
そしてある日出会った人が言うのだ。
「もう君たちは無限の可能性を持つ子供ではなくなってしまった。大人になって、そういうものは失われてしまった。だから、幼い頃からの特別なパートナーとも、そろそろお別れだよ」
なんて残酷な物語なのだ。
これはいつか私たち――テレビの前にいた凡人の私たちが辿ってきた道筋なのに。引っ越しや進学やちょっとした連絡の隙間で友人と疎遠になり、そしてその別離の寂しさや悲しみも日常の合間に置き去りにしてきたのは、私たちだったはずなのに。
特別な勇者である「選ばれし子どもたち」すらも、この残酷な現実を通って大人になってしまうのか。
太一たちは私たちと変わらず、ただあの世界で生きる一人の少年少女だった。
唯一無二で、何度引き離れても強い絆で結ばれていたパートナーが解消になるというのは、アニメの物語としても残酷だけど、それだけではない残酷さがあった。
彼らの冒険に憧れて、彼らの勇気に力をもらって、彼らの背を追いかけてきた私たちが、私たちと同じように「無限大な夢のあとの何もない世の中」を生きていく彼らを観る羽目になるなんて。
彼らは特別な勇者様だから、こんな痛みは知らずに、キラキラした冒険譚を携えて育つと思っていたのに。なんて残酷なんだ。
デジモンは「進化」の物語だ。
ポケモンのパクリとよく言われていたけど、戦いの度にデジモンが「進化」して、パワーを使い果たしたり負けたりすると退化してしまうのは、ポケモンとの大きな違いだと思う。
パートナーの感情の高ぶり、意思の強さに反応して、デジモンが強く「進化」する。
強敵が現れ、子どもたちが更に奮起すると、さらにもう一段階強い形態に「進化」する。
そして悪を討ち、勝利をつかむ。
この物語は、この世界は、「進化」することが何よりも是とされているのだ。
「ありのままの君でいいよ」なんていうのは、エピソードや台詞としては存在するけれど、基本的にこの世界では、進み続け、勝利し、一皮むけて大成することこそが、何よりも素晴らしいことなのだ。
単純に展開の盛り上がりにも直結するし、子供向けアニメの要素としてわかりやすいから採用されている方程式かもしれない。とにかく太一とアグモンは、ヤマトとガブモンは、進化し続けることこそが絶対正義の世界に生きている。
ファンが大好きな「進化」の際にかかる挿入歌「Brave heart」の歌いだしはこうだ。
逃げたり諦めることは誰も 一瞬あればできるから 歩き続けよう
であれば、ラスエボで太一とヤマトが「無限の可能性を失った」と言われパートナーデジモンを失うのは、当然の帰結だ。
「本当にやりたいことが見つかるまで」と言い訳して、卒論のテーマも進路も決められず、社会的に許される猶予期間に甘えてふらふらしているような子どもは、最早「進化」の余地なしと見なされる。
丈や光子郎は、これと決めた道を進み、今日も専門技術を磨いている。明日には何かまた新しい「進化」をするだろう。スタバで執筆に励むタケルだって、数年後にはベストセラー作家に「進化」する可能性を今育んでいるのだ。恐らくパタモンとの別れは当分訪れない。
メノアは、賢い彼女を「誰も理解してくれない」と嘆いて飛び級を選択したような描写があった。きっとこの世界では、それは「逃げ」であって、「進化」ではないのだ。だから彼女は無限の可能性を失った。
改めて残酷なテーマを拾ってきたな、と思う。
ここをピンポイントで拾ってきた製作陣は人の心がない。太一とヤマトにこれを乗り越えてほしいと思った人たちの愛の重さを感じる。スタンディングオベーションだ。
この世で、物語の中みたいに「進化」し続けられる人間が、どれほどいるんだろう。
私たち凡人は、成長の過程でどこかで一度はガラスの天井にぶつかり、自分の無力さにうちのめされ、これ以上この道は進めないと悟る。「進化」を望むことすら諦めて、自分を慰める機会も多い。
あちこちの物語で繰り返される、「ありのままの君でいいんだよ」という耳障りのいい言葉に泣いて縋って、救われた気分になる。
実際、助けになってあげられない友人の悩みを聞いた日には、「引き際も大事だよ」なんて、暗に歩みを止めることを肯定することもある。
そんな風に「進化」を諦めてきた私たちの前で、太一とヤマトが、「進化」を選択する。
その「進化」にはパートナーとの別れという、彼らにとってきっと人生最大の痛みを伴うというのに。それでも、誰かを守るため、救うため、自分たちが生きていくため、進み続けることを選択する。
残酷だ。なんて残酷な物語なんだろう。
彼らにその選択をさせるこの世界は、残酷だ。その残酷な世界で「進化」する彼らは美しいな、と泣く私たちも、また残酷だ。
同時に、彼らのあの選択が、「進化」を諦めた私たちの現状に深く突き刺さる。それもまた、残酷だなと思う。
やっぱり彼ら「選ばれし子どもたち」は、私たちとは違う、特別な勇者様だったのだ。
私たち凡人の下には、あの目の眩むような夏空からデジヴァイスは降ってこない。
彼らの下にこそデジヴァイスは降ってきて、彼らは彼らだからこそ唯一無二のパートナーを得たのだ。
だからこそ私たちは、あの輝かしい冒険から勇気をもらったのだ。
これが「最後の進化(Last evolution)」だというのは、「選ばれし子どもたち」の肩書きを返上するということなのだ。
最早太一やヤマトが、社会からの見返りも一切なく生活の一部を削りながら世界平和のために戦うことはない。
いつかの遠い日、特別な存在だからこそ世界を救う少年少女に憧れた私は、この映画の冒頭でスクリーンに蘇った彼らの勇姿に、一抹の憐れみを覚えていたのだ。
「君たち、まだそれやらされてるのか。大人や社会の支援もないまま」
この世界では、デジモンが出現して暴れ回って突然消えたことはニュースになるけど、それに対処した太一は一限を受講免除にはならないのだ。それが現実だ。
自衛隊に幹部待遇で内定? 光子郎の自前の技術と八神・高石田兄弟のボランティアで守られてる平和には、驚くべきことに一銭の見返りもない!
アグモンを学校に連れてってやれよと言われた太一が言う。「無茶言うなよ。俺には俺の生活があるんだから」
いつだってずっと一緒で、世界の危機を回避するために常に冒険して身構えて、身を粉にして働く勇者様の役目はもう終わりだ。
もうそろそろ、いやもしかしたら少し前から、人生の切り替えが始まっていたはずだ。特別な勇者様ではない、彼ら自身の個人としての人生への切り替えが。
この物語は、一度「選ばれた自分たちだから」と腹を括った道ではあったけど、ずっとこのままこのために生きていくわけではないと、太一たちがその役目から降りる物語でもあった。
凡人の私たち風に言えば、転職だ。進路変更だ。あるいは結婚、出産、昇進、配置換えに応じて、自分の立ち位置や今後の方向性を変える転機でもあった。
それなら、パートナーとの別れを経た太一とヤマトに、決意して彼らの下を離れることになったアグモンとガブモンにかける言葉は「長い間お疲れさまでした。今までお世話になりました」なんだろうな、と思う。
お別れなんてしたくないけれど、彼らに特別な勇者様像を望むのは、私たちのエゴなのだ。
私たちも、彼らも、これからは「無限大な夢のあとの何もない世の中」で、「進化」しなくてはならない。残酷な話だけど。
ラスエボ、私たちがあの夏の冒険を夢見てから20年経った今、この残酷な物語を描き切ってくれて本当にありがとう。
「選ばれし子どもたち」という、一種呪いのような肩書きと、それに伴う宿命を背負わされた彼らが、あの残酷で美しい0と1の狭間で進み続ける物語。
それを今の時代に観られたことに心が震える。
夢のような冒険譚だけでなく、痛みや現実的な苦しみを描いてくれるからこそ、私たちは「デジモンアドベンチャー」を愛していたのだから。
そうしてまた、「進化」を選択し、進み続ける彼らへのご褒美として、02のEDに続く、大事なパートナーとの再会があることを願ってやまない。
どうか彼らの「進化」が、(物語の外でもいいから)報われますように。
あの遠い夏の冒険のときのように。
最後に一個だけ。
ラスエボ、全方位鬼のような演出力だと思うんですけど、ラストでちょうちょが二匹飛んでいくの、
- アグモンとガブモンがモルフォモンと同じエンドを辿ったから
- 絵画でも蝶は「魂」を表す象徴だから
- 主題歌の「ゴキゲンな蝶になって(略)君に会いにいこう」を汲んでるから
のトリプルミーニング演出が強すぎて最高でした。本当にありがとう……。